昭和46年08月18日 朝の御理解
御神訓 一、信心の心得 「若い者は本心の柱に虫を入らせなよ。」
仲々難しい御教えですね。若い者は本心の柱に虫を入らせなよ、問題はこの本心という事なのですね。若い者とこう仰る。若者とこう仰る。親に不幸をしたり、よくない遊びをしたり、平気でそれをやる人等は、まあ本心の柱に虫が入っておるのでしょうね。親の心が分って、どうでもこの親に喜んで貰わにゃ、この親に親孝行したいばっかりにと言った様な思いで勉強したり、又は一生懸命に仕事に励んでるというのは、まず本心がしゃんとしとるわけなのですね、虫がついてない。
だからこれは若い者に限らない、いうなら信心の若いものというわけでしょうかね。信心をはじめる。信心を段々分らして頂こうと、意欲出させて頂く為に、まず自分の本心を見極めて、それではのうてもこの様な、めぐりの深い私だからと、めぐりの自覚に立ち、これ以上めぐりを積むような事をしてはならんと、こう言う様な、そう言う様な心掛け、そこから本心に虫を入れさせんですむ。同時にその前の方にもありますね。その一つ前に、信心は本心の玉を磨くものぞや。
本心というものを二つ並べてある。信心は本心の玉を磨くものぞ。ですからそこから、本心をもう汚すような事もなく、虫をつかせるような事もなく、只大事にしていく。いわゆる改まって行こう、磨いて行こうと言う事になる。同時に私は本心とはどのような事かと、本心というのは神様に頂いたままの心とそういうふうに頂いたらどうでしょうか。神様に頂いたままの心無垢のもの。これが本心。
悪い事なんかを致します。どうぞ本心に立ち返ってくれと言った様な事を申しましょう。もうこげな悪い事はしなさいますな。どうぞ本心に立ち返って下さいというわけなのですね。お芝居なんかよく使いますね。本心に立ち返る。その本心とは神様に頂いたままの無垢の心を本心というのであると私は、今日頂きたいと思う。無垢のもの汚れがない。それがいつの間にやら、我情が出我欲がで、しかも人間の法にそむくような悪い事でも、平気でするような、いわゆる本心の性が段々変わってくる。
それをいわば、ほったらかしときますと、いわゆる人面獣身と言う様に、人間の面をしておっても心は、獣にも劣ると言う事にもなりかねない。だからもう信心とは、そう言う事にならぬように、神様に頂いた心を無垢のまま、それにしかも研きをかけて行こうというのが信心である。だからこそ信心は、本心の玉を研くものぞやと教えられた。同時に若い者は本心の柱に、虫を入らせなよと。だからここでは若い者というのは、まあ私共信心がまだ若い。
信心とはもう本気で日々の改まりが大事であり、本心の玉を研く事だと、ここに信心が極まった。極まったところから、本心のこの柱に虫をつかせるような事があってはならぬと。精進して行く事だと思う。だから若い者というのは、そこに気づかせて頂いた。ここにはじめて、そういう信心が誕生した。だから年寄りでもそこんところが分ったら、それが信心が若いことだと思うですね。
あぁお話を頂けば頂く程、今までの生き方、在り方は間違いだらけであったとこれからは神様の御心に添い奉るおかげを頂かせてもらおうと発心する。いわゆる信心の芽がそこから出る。それがだから若いのである。信心の芽が出たらところがあの時に、あのように深く思うたのだけれども、何日かしよったら何ケ月かしょったら、又元のもくあみになっておったというのでは、その芽が若いから虫がつきやすい。
やはり今までのいうならわがまま、勝手な生き方の方が楽な手近なその生き方を変えようとするのであるから、成程そうい生き方があったのかそういう生き方にならねばいけんのだと、わからせて頂く。本心の柱を研くものだと信心が分らせて頂いた。それが私は若いと思う。信心の芽が出た、だからこの芽を大事に育てにゃいかん。不思議なんですよね、その芽が出ますとね、心の中にそれこそ、千代田さんの言葉を借りるなら、何とものう有難うなってと言う事になるのです。
訳はないです。何をするにもいうにもです、それこそ何とものう有難うなってというておられます。これは本心が信心に開眼した。信心とは本心の玉を研くものだと分った。だからそういう心にならして頂こうと意欲されて、信心修行が続けられて行く内に、必ず信心の喜びこれが信心の喜び、お願いしたらこれば頂いた。一寸有難いというものじゃない。信心を頂くその事が有難い。
これはね自分が有難う思わんでも神様が下さるものなのです。この心は本気でね本心の、いわゆる信心の芽が出るような思い方になったら絶対です。何とものう有難うてなってくる。ところがその芽がまだ若いか、そこで我情が出たり我欲が出たり、我情我欲の虫に侵されて、又その喜びの芽がどこえ行ったのか分らん様になってくる。そこを繰返し繰返し、若い芽を育てていくのが信心。
だから若い者と言う事は、青年というだけの事じゃないと思うですね。信心の芽が出たところが若い信心と言う事、そこでね本心と言う事が、本心に立ち返るわけですけれども、為にはどう言う事が分らねばならないかというとね、神様の本が和からにゃいかん。神様の本当の御心というものが、分らなければいけん。ここが大事なところ、神様の御心がわからんから、見当違いの信心になったり、見当違いの生き方になったりするのであります。神様の本心とはどう言う事であろうか。
昨日私はもう二,三日前から四国の川上さんからお手紙を頂いた。いろいろのお伺いの事が、だから先生すみませんけれどもこれに対する御返事を頂きたいと言う事であった。私はまず、手紙を信心を抜きにしたのなら、手紙を書きますけど、大体が無筆ですから、無筆同様ですから、仲々手紙書きません。だからもう書かんときめとる。それでもまあ、返事だけはせなければなるまいと思うてから、まあその要点だけを書いて出してあげじゃこてと思うてからね。
こう言う事を私は大体しませんのですけどどうもこれは間違うた、もうこれは書いて送ってやろうと思うた。ところがここまて書いたら必ず、書き間違えるのです。たったこれだけ、お手紙拝見しましたと、そのましたというところで違うのです。必ず字が違うてくる。だから私は、おかしいな思うた、思いながら、又書かして頂いた。たったこれだけ、二,三行書くだけの事でもうこうして、ましたのところがです必ず書きなおさんならん。それでもやっぱり、三枚目をこれだけ書いた。
書いてこれを封筒に入れて出させて貰うかと思うとったら、神様からその必要はないという意味の事を頂くのです。だから書いたままここに置いとった。そしたら四国から電話がかかってきた。ははぁ神様はここのところを分らせて、私に手紙を書かせようというのではなくてね、自分でお伺いしたいなら、お願いする時にはいつも電話でお願いしよんなさるとですこの方は。
だから御電話をして直接先生から御返事を頂いたら、どれだけ有難いか分らん ここんところに実意が欠けておったとお手紙で詳しくこうやって、お届けをさせて頂きました。だからこの御返事は後で電話で御伺いしますからと、書けばよかったのだけれど、私に手紙を書かせようとしたところに私は、神様の本心はどこにあったかと言う事なのです。いわゆる、神様の本心が分らんと、御粗末御無礼は平気です。
だから私は、私共の本心そのものを、本心に立ち返ると同時に、その本心をいよいよ本心とは、神様から頂いた無垢のままの心と分って、今日は皆さんに聞いて頂いたわけです。ところが私共段々、おかげを頂いて行く内に、これに我情がつき我欲がともなうて、いわば神様に頂いた心とは似ても似つかぬ、まあ年寄りならば頑固爺になり、これがこんにゃく婆のようになってしまう。
もう本当にあの世に行かんならんようになって益々頑固になってくる。それを頑固爺という。家の親父ばかりは頑固爺じゃから。婆さんならもう家の婆さんばっかりは、もう灰(あく)汁で固めたこんにゃく婆じゃけんという事になってしまう 素直になれない。曲がり根性が強うなる。いわゆる本心を見失ってる。しかもそれが何十年かたった時に頑固爺とか、こんにゃく婆と言う事になる。
ところがその頑固、仲々七十にも八十にもうなると取れんですよ。私は敬親会の時にいつも、しみじみそれを思うのです。あぁ親先生のお話を聞いて有難いと言いよる、その口の下から、まだ我情我欲を言うとる若いものがどうの、嫁がどうの養子がどうのと言う事になってくる。ですから本当にお互いが、まだまだ若いうちにです、そこんところを本気で、ですから一度そこに気づかせて頂いたら、七十であろうが、八十であろうが信心がいわば若い者という事になるのです。
もう何十年間という間、御粗末御無礼の生き方をさせて頂いて、それでも神様ようもようも、ここまでおかげを下さったと、御礼をいう心が生まれ改まりの心が出来てきたらです同じです、だから七十になっても八十になっても若いと言う事がいえるでしょうがね、その心が出たら。それを私共はまだ年をとっておっても、五十か六十若い皆さんの場合、まだ二十なら二十代でそういう本心に立ち返ると言う事を、分らせて頂く信心を頂いたと言う事が有難いのですから、本気で自分の本心に取り組ませて頂く。
信心生活がなされなければならん訳であります。だから何十年信心しよってもです、ここんところを抜きにしたら、もうそれは本当いうたら、それは信心じゃないです。皆さんの本心はどうでしょう。先日ある方から、贈り物を頂いた。どんなに考えてもそればってん有難くない。その方の本心が見えすいとるからなのです。こうやって私に贈り物をして下さった。これは本当に心行き届いた贈り物であった。形の上に於いては。ところがどうも有難くない。
私はけれどもそれは私に本当に喜んで貰いたいでなくて、その事の外にその方の本心は外にあった。そんな場合ありますよね。例えばこの頃はじめて聞いたのですけどね、銀行取引など致しますとね、やはり係の方達に沢山の金を借りたりしましょう、それで係の方に盆正月には、ちゃんとせなければならんもの、そげんところにお歳暮やらせにゃならんものらしいですね。それでちゃんと今年はビ-ルやら酒やら貰うてもしょうがなかけんお金で下さいというそうです。
それが当たり前、金を借りる方のエチケットらしいです。こっちは全然知らなかったそげな事は。こっちは金を預けたり借りたりしとるけん利子はきちっと払いよるし、向こうから貰わんならん。今度は銀行から何も貰わんのと言いよったところが、こっちが貰わんならん気がしよった。ところが反対じゃったね、こういう場合です、こういう場合に相手の方に喜んで頂く為にじゃなくて、次にこっちから無理をいわんならんからの贈り物であるなら、本心が違うてくるでしょうが。
そういう場合にも本心と言う事を思いますね。けど今日はそういう意味での本心ではないです。いわゆる本心に立ち返ってという本心なのです。いわゆる神様から頂いたままの無垢のもの。無垢の心に返るという事。そこでそこに気づかせて頂いたら七十であろうが、八十であろうが信心が若いそこから新たな信心の芽が出ると言う事なのです。信心の芽が出る。なら信心の芽が出たら、どう言う事になるかというと、千代田さんの言葉を借りて言うと何とものう、有難うなってといわれる。
だから皆さんの心のなかに、何とものう有難うなってという心が、まだ湧かぬならば、皆さんの本心が違うとる。お参りはしよるばってん、本心の玉を研くとか本心の柱に虫を入らせない為にではなくて狙いが違う。神様にむごういうて何か貰おうと言う様な、見当違いのところではないかと、これは検討してみにゃいけん。
何となく信心ちゃ何とのう有難うなってというものが、伴はなければ本心のいわば、その芽が出ていないと言う事を悟らにゃいかん。自分は何年何十年信心しよるけれども、一向に有難うならん。お願いして自分の思うごとなると涙の出るごと有難か、けれども普通日頃が何とものう有難いという、その心が出てないとするならば、まず自分は本心の柱に取り組んでいない。本心の玉を研く事に焦点を置いてないんだとまず思わして貰う。そこから発足するところの信心、それが信心の芽である。
この芽は若い。若いから外の強い我情我欲、ここに誘惑がありますと、その心が本心の柱にすぐ虫を入らせる事になる。それは若葉の時に虫が入るのと同じ事、そこのところを私共が信心、辛抱のおかげを頂かして貰って、あぁここで負けちゃならん。ここで本心の柱に虫を入らせてはならん。このことを対象、この事を材料として、本心の玉を本気で研かして頂こうという気にならして頂くと言う事。その為には私共の本心の本心を見極めると同時に,神様の本心がひとつわからなければいけないと言う事。
神様の本心がわかるところから、神様の心に添い奉ろうとする。生き方が生まれてくる。だから間違うと、昨日この手紙のように、私が何べん書いても書き損、おかしいなあと思うたら、私に返事を書かせようというその心が間違っている。だらこれは書く必要ないと神様からお知らせ頂いて、書き止めてそれから二,三時間したら四国そこから電話がかかってきた。そして電話をかけておうかがいするというその事が神様の本心であるという事がわかった。
だから私はそういう小さい事の上にでも、神様の本心が分ると、本当の信心の道を間違いなく歩いて行く事が出来る。只自分中心自分の都合のよかごとというだけでは、ややもすると神様の本心を見失って、自分本意の生き方になろうとする。それでは本心の柱を研くことにもならなければ、本心の柱に虫を入らせんですむそれを防ぐ事にもならない。お互いひとつ自分の本心、本心という表現を今日二つ申しましたけど、どこまても今日の本心というのは、神様に頂いた無垢のままの心。
それを今日は本心と聞いて頂きました。その本心に立ち返ってこれでも、それでもこれ程しの御粗末御無礼してきたものを、これ以上御粗末御無礼があってはならないと、そこから新たな信心が生まれてくる。新たな本当の信心生活が出来るようになってくる。そこからその事を神様が御喜びとなさるから、それが願わんでも、頼まんでも自分の心の中に、何とものう有難いなってと言う事になるのでございます。
どうぞ。